ラグビーワールドカップ決勝戦で、南アフリカと激突するイングランドのエディージョーンズヘッドコーチが、試合登録メンバー発表の席で、日本語で「ユウショウ シマ~ス!」と宣言しました。
現役の頃どんな選手だったのでしょう?かかわりが深い日本人との4つの関係を挙げてみました。
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エディージョーンズは現役の頃どんな選手
エディージョーンズの現役時代を見てゆきましょう。
エディージョーンズは、13歳からラグビーを始め、~15歳では、リーグに入ってやっていました。
そのころはラグビーとクリケットを並行してやっていましが、22歳で、ラグビーに専念するようになりました。
現役時代は、1987年から1989年の間にランドウィックRandwick(その後コーチを務める)とニューサウスウェールズのフッカー(背番号2、FWのスクラム最前列中央のポジション)として、12回プレーしています。
1989年にニューサウスウェールズBチームの一員として、イギリスとアイルランドのライオンズ(ラグビーユニオンのホームユニオンの代表選手から選ばれ構成された特別チーム)と対戦し、目立った活躍をしています。
また、1991/92シーズンにイングランドでレスタータイガース(イングランド・レスターを本拠地とするラグビーユニオンクラブ)戦に3回出場しました。
大柄な選手が多いフッカー(背番号2番)のなかでは、体が小さい(2006年当時、身長173センチ、体重82キロ)選手でしたが機敏な動きで活躍しました。
ゲームセンスとスキルは並み以上にあったと本人も語っています。
現役時代の一番の思い出は、自分のクラブチーム・ランドウィックが、1988年にニュージーランド代表のオールブラックスと対戦し、21-9で負けた試合だったといいます。
オールブラックスのそのツアーでは、いちばん得点差の少ない試合でした。
とてもファンタスティックで、クラブチームとしてみれば、快挙といってもいいくらいで、プレーヤーとしてずいぶんいい仕事をした思い出があるそうです。
ニューサウスウェールズ代表には、15回選ばれているものの、オーストラリア代表チーム(ワラビーズ)では補欠で、代表チームでプレーすることはなかったそうです。
1992年に現役を退き、大学卒業後は、「インターナショナル・グラマー・スクール」(シドニー)で体育を教える教員となりました。
エディージョーンズが日本人ぽい理由
エディージョーンズのルーツや日本との関りを見てゆきましょう。
ルーツや家庭
1960年1月にオーストラリアのタスマニアで、メルボルン生まれのオーストラリア人の父親と広島県をルーツに持つ日系アメリカ人の母親の間に生まれました。
軍隊で日本を訪れた父が通訳をしていた母と知り合い結婚に至ったそうです。
したがって、エディー本人はクォーター(1/4)となります。
容貌が日本人的といえばいえないことはありません。
1992年大学卒業後に、体育を教える教員となり、1994年には「インターナショナル・グラマー・スクール」(シドニー)で学校長を務めていました。
そのときに、同じ学校で日本語教師であった宏子夫人と知り合い、結婚しました。
。
宏子夫人はお父さんの仕事でオーストラリアに10年いて、大学進学のために日本に戻り、明治大学を卒業して1年間会社へ勤め、その後オーストラリアへ来て、学校で日本語を教えていました。
チェルシーという名前の娘さんが一人(おそらく現在26歳くらい)いらっしゃるそうです。
2006年当時家庭には、妻と娘が会話するときは日本語しか話さず、エディーさんと娘とは英語というルールがあったそうです。
1996年にプロのコーチになることを決心して、日本に来て東海大学のコーチになりました。
これがコーチとしてのスタートでした。
初めて日本の文化に触れたときに、普通のオーストラリアの家とは、ちょっと違うふうに育てられたんだと思いましたが、母の育て方の中に日本人の育て方があったことを、ずいぶん経ってから気がついたそうです。
ラグビーのプロコーチのキャリア
1996年に東海大学のコーチになった以降のキャリアは以下です。
チーム名(在籍期間) | ポジション | 国 | 実績 |
---|---|---|---|
東海大学 (1995-96) | コーチ | 日本 | |
日本代表 (1996) | FWコーチ | 日本 | |
サントリーサンゴリアス (1997) | コーチ | 日本 | |
ACTブランビーズBrumbies (1998-2001)スーパーラグビー | ヘッドコーチ | オーストラリア | |
ワラビーズ(オーストラリア代表) (2001-2005) | ヘッドコーチ | オーストラリア | |
サラセンズ Saracens(2006) | コンサルタント | イングランド | |
レッズReds (2007) | ヘッドコーチ | オーストラリア | |
南アフリカ代表(2007) | チームアドバイザー | 南アフリカ | ワールドカップ優勝 |
サラセンズSaracens (2007-09) | ヘッドコーチ | イングランド | |
サントリーサンゴリアス (2009-12) | GM(ゼネラルマネージャー,ヘッドコーチを兼任) | 日本 | 日本選手権優勝、トップリーグ制覇 |
日本代表 (2012-15) | ヘッドコーチ | 日本 | ワールドカップで南アフリカに勝利 |
イングランド代表 (2015-present) | ヘッドコーチ | イングランド |
日本語をしゃべる?
お母さまは、家では日本語をしゃべらなかったそうです。
しかし、奥様や、日本での長いコーチの経験で、日本語も少し話せるということです。
2015年の日本記者クラブ向けの記者会見の冒頭では、司会に紹介されたとき流暢に「ありがとう」と言葉をかえし、記者たちに向けて「こんにちは」と流ちょうにしゃべられています。
また、今回のワールドカップのニュージーランド戦で、勝利した後も、試合後のインタビューでは、日本語で「皆さん、ありがとうございました。いい雰囲気つくってくれた。素晴らしいワールドカップをありがとう」とあいさつ。スタジアムの大歓声を受けました。
カメラに向かっては、日本語のインタビューは受けないそうですが、かなり話せるのではと思われます。
コーチ哲学
イングランドのコーチであるエディージョーンズが、コーチングの哲学の中心に置いたのは、日本の「和」です。
日本人の母親とオーストラリアの父親によって育てられて、彼は幼い頃からの社会的責任の原則と集団の重要性に気付かされて育ちました。
それは今でも彼がイングランドの選手に伝えようとしているものです。
彼は選手に無私無欲の考えを課し、イギリスチームを完全に調和させています。
彼が読むように、選手に勧めた本「日本:調和のパラドックス」には、日本社会の指導的教義を探求したものです。
ここには、和のさまざまな側面を詳しく説明しています。
日本のサラリーマンの長時間労働に見られる極端な忠誠心、昼食前に日本の子供たちがテーブルを拭いて、学校のウサギのケージを掃除する幼稚園で始まる他者への自立と奉仕、誰もが守らなければならない厳格な規則性などです。
著者は、「日本では、社会的調和の理想は和として知られるようになりました。和、社会的集団内での平和的な結束と順応の創造と維持であり、団結したコミュニティが個人の利益より優先されることを約束します。」
それをスポーツに翻訳すると、基本的に「チームには「私」はいません」。
ジョーンズは選手個々がチームの「私」ではないことを理解させ、イングランドチームを完璧に調和させています。つまり、無私無欲という考えは、ジョーンズが彼のチームに課そうとしたものです。
(dailymail.co.uk参照)
エディージョーンズ最新ネットの反応
出典:ヤフコメ
奇跡のレッスンの中で、エディージョーンズが高校生のディフェンスのコミュニケーション不足を指摘していました。
ラグビーファンが皆、エディージョーンズのコーチとしての能力、日本への大きな影響力を感じているようです。
まとめ
エディージョーンズは現役の頃どんな選手だったかと、日本、日本人との深い関りについてまとめました。
コーチ哲学自体に大きな日本の影響があったというところが驚きです。
ラグビーW杯決勝はエディージョーンズが率いるイングランドか、その教えを受け継いだ日本を倒した南アフリカか、という最高の戦いとなります。
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